「キリストの昇天」 使徒行伝1:6~14

深谷教会復活節第7主日礼拝2024年5月12日
司会:山口奈津江姉
聖書:使徒行伝1章6~14節
説教:「キリストの昇天」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-336
奏楽:野田周平兄

説教題:「キリストの昇天」 使徒行伝1章6~14節    佐藤嘉哉牧師

 日本ではなぜキリスト教伝道が進まないのか。これは私たちの中で大きな疑問であり向き合うべき課題です。遠藤周作の著書にもその課題が中心となっているものが多くあります。正直言えば、日本にキリスト教がある限り、「日本でのキリスト教伝道は難しい」という問題は永遠に続くと思います。実際2030年代には今の日本にある教会の2/3が、キリスト教者減少によって閉鎖もしくは合併すると考えられています。新型コロナウイルスによって拍車がかかり、2020年代後半にはそうなっているのではないかとまで言われています。この深谷教会は他の教会に比べて信徒数が多いことから、その中でわたしたちはどうこの問題に向き合い、教会を存続していくべきでしょうか。今日はそのことについて聖書を読み、共に聖書からの励ましを受けたいと思います。
 以前ペテロに対して主イエスが「あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人たちがあなたに帯びを結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」と言った場面を説教で触れました。実際ペテロとパウロを始め、そのほとんどの使徒たちはこの使徒行伝の中でたくさんの国や町々村々を旅行しました。しかし彼らの歩んだ道は決して平たんな道ではなく、むしろ苦難に満ち溢れたものでありました。彼らにとって行きたくない場所に行くこととなります。さて今日の聖書個所は、使徒行伝1章6節からとなりますが、1節から5節の言葉に続くものでありますので、お読みしたいと思います。「テオピロよ、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、『エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう』。」
 主イエスは復活された後40日間この地上で姿を現し、使徒たちに教えられたことが書かれています。先週までずっとこのことを見てきましたね。そのイエスの地上における最後の教えに注目したいと思います。
 一つは「聖霊による洗礼」の予告、もう一つは、聖霊によって使徒たちはイエスの証人となり、世界に出て行くという予告です。しかし6節に書かれているように、使徒たちはイエスに問います。「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか。」なぜ唐突に「復興」という言葉が出てきたのでしょうか。使徒たちはこの時ですら、主イエスがこのイスラエルをローマの支配から解放し、真の意味で復興してくださることを期待していたのでしょう。その問いに対して主イエスは「時期や場合は、父がご自分の権威によって定められておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」と端的に答えています。すぐにでもその聖霊による洗礼が与えられ、自分たちが求めている理想の世界が来るようにと願っており、その答えが欲しいと思っていた使徒たちにとっては肩透かしを食らったようにも感じたことでしょう。主イエスが復活され、使徒たちに姿を現し、これから起こることを伝えたことによって、使徒たちはどうなったか。これまでの歩みを悔い改めたかと言えば、今日の聖書箇所の時ですら自分の望みが叶うことを期待する今までと何も変わらずにいました。本当に残念で仕方がありません。つまり使徒たちにとって主イエスの福音は「イスラエルのため」だけでよいと思っていたということです。これに対して主イエスは「神が定めているのだからあなた方の知る限りではない。」とはっきり答えています。続けて主イエスは「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」と言いました。使徒たちが思っていた「イスラエルのため」の福音は地の果てまで広がるのだ。そう主イエスは弟子たちの想像をはるかに超えた規模で語ります。
 旧約聖書の詩編19編にはこのようなことが書かれています。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」神の選びによってイスラエルの王として立てられたダビデの詩です。主イエスが生まれる何千年も前の言葉でありますが、その時既に神の言葉が世界の果てに向かっていると伝えています。続く箇所もお読みします。「そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。太陽は、花婿が天蓋から出るように、勇士が喜び勇んで道を走るように、天の果てを出で立ち、天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。」幕屋というのはパレスチナの東にある陸地のことを指し、太陽が東の地平線から上り地上にあるすべてのものを照らすように、神の言葉が全世界へと語られていくことを表現しています。しかし詩編ではどのような手段で神の言葉が世界に広がっていくのかまでは語られていません。神の言葉が世界に広がっていく、それはダビデにとっても当時のイスラエルの民にとっても心から願うことでありましたが、ではどうやって広がるのかまでは想像できなかったのでしょう。旧約聖書の限界がここで見えてきます。事実として現在のユダヤ教では、神の言葉はまだ世界に広がっていると考えていませんし、主イエスを一人の預言をした人物ととらえているのみです。しかしキリスト教は使徒たちの懸命な宣教旅行によって教会の業が始まり、神の言葉が世界に広がることとなったのです。主イエスの生まれる前から告げられていたことが、使徒たちによって広がっていくのです。しかしそれは私たちが望んだことではありません。何よりも神がそのように欲したのです。だからこそ使徒たちが立てられ、教会が建てられていったのです。
 このことを話された後、主イエスは天に上げられたとあります。これもあまりにも突然の出来事のように感じます。しかしこれは以前から預言されていた通りのことであり、使徒たちはこの一部始終を見たことによって真の意味で、この後に与えられる神の約束、聖霊が与えられることを信じたことがわかります。使徒たちは主イエスが天に昇られた様子を見つめていると、白い衣を着たふたりの人が声を掛けます。この二人は主イエスが復活された時、墓にいた御使いであると考えられています。この一連の出来事はすべて神の計画の内にあったということです。神の御使いが「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に昇って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。」と言います。主イエスの再臨がこの神の御使いから告げられます。主イエスの昇天と再臨の時を待ち望み、その間を結ぶのは教会です。その教会の務めを全うするため、使徒たちは世界各地へ赴き福音を世界へと広めていったのです。その道は決して平たんなものではありませんでした。使徒たちには多くの苦難が待っていました。できることなら行きたくない。そう思うような場所にも行ったのです。その結果、ひとつの民族宗教の1つのグループに過ぎなかったキリスト教が世界宗教へとなったのです。神の大いなる計画を私たちは見ることができます。
 日本はキリスト教が広まらないと冒頭で述べましたが、それは使徒たちが伝道した先々も同じでした。広まりやすい場所であれば使徒たちも苦労しなかったでしょう。キリスト教は根付きにくい場所に広められるということを神が計画しているのかもしれません。ですから日本が特別広まりにくいというわけではないのです。そういう場所にこそ神は目を向け、その福音が必要であると思い、召された人を遣わすのです。わたしたちはただその道が示されますことを望み、使徒たちと同じように「心を合わせて、ひたすら祈る」ものとなりたいと思います。

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